歴史編・2
●東山道と下野国そして泉が丘
栃木県は昔、下野国といわれていました。
今から1200年以上も前から、日本の国は律令制度のもとに、日本全体を5畿7道に分け、5畿とは、都付近の奈良・京都・大阪の2府1県に当り、7道とは、山陰道・南海道・西海道・東海道・東山道・北陸道で下野国は東山道に属していました。
東山道は、奈良・京都当時の都から、近江(滋賀県)・飛騨美濃(岐阜県)・信濃(長野県)・上野(群馬県)を経て、下野国(足利)へ入り、県内を北上し、県北の湯津上・伊王野付近を通り、隣国白の関がある福島、さらに北上し陸奥・出羽の国(東北地方)まで伸びていました。
栃木県に関しては、東山道は国道4号線のような国の幹線道路であったのです。
7道のうち、国の重要な道路は、山陽道と東山道でした。
山陽道は、九州に大宰府があり、対中国・朝鮮との外交及び国防上きわめて重要であり、それに次いで東山道でした。
古代の中央政府にとって東北地方における蝦夷の反乱に対処することが重要な課題であったからです。
これらの7道は政府が管理し、道路は地方の政庁が置かれた国府と結んでいました。
下野国の国府は、現在の栃木市の東北地区にあたる国府・大宮・総社町・古国府などにあったとする諸説があって確定していません。
東山道と言う道路は一定の基準によって造られ、障害物のない限り道幅は7mほどの直線(年代によって違いがあった)でした。
そして道路には、約20Km毎に中継所として駅家を設けました。
また、駅家については、駅馬を常備し中央からの官人の利用に供しておりました。
東山道『ウィキペディア(Wikipedia)』☆次回へ続く…